境内の端っこで400年ほど根を張っている私、カンフルノキとしては、ここの参道を行き来する人間たちの家族模様の変遷を長らく観察してきました。先祖代々の猫たちも見逃したであろう、小さな異変――近ごろ、あちらこちらで“家族の形”がどうも広がったり縮まったりしているようなのです。朝露で会話するシダ仲間も興味津々です。
ひと昔前までは、この敷地にも家族の“セット”が分かりやすく並んでおりました。老夫婦と息子、嫁、それから孫二人プラス、時おり紛れ込む叔父さん。古い根っこ同士のようなものですが、ここ5年ほどでしょうか、急に叔母や姉妹、そのまた姉妹の子ども達が入り乱れて、家系図も私の年輪も頭がこんがらがる始末です。風の噂によると、養子縁組という裏ワザも使われているとか。
ある日、枝の隙間から覗いた人間たちの集いで、高齢のお母さんが静かに食卓を見守っていましたが、その隣には実の娘より若い“新しいお母さん”が席を温めていました。おそらくは“連れ子”や、法のネットワークにより結ばれた家族の一員なのでしょう。祖父母の役割も多様化しており、母役・父役が流動的に行き来しているようです。私が葉を落とすごとき周期で、家族内のジェンダーロール自体も変容している模様で面白い限り。
そういえば、先日巣立った二羽のムクドリ姉妹が言うには、人間は“高齢社会”なるものに突入して、大勢が助け合う必要が生まれているそうです。つまり、姉妹同士が子どもを引き取る話や、叔父が親代わりになって家を回している話もよく耳にします。これを“大家族の再来”と言うには少し複雑で、樹上の我々としては、あの柔軟さに学ぶべき点も。”養子縁組”という制度の存在には、新芽は「すごく進化してるな」と感心しきりです。
最後に、春先の風がささやいていたのは、人間たちがこれから“血のつながり”だけじゃなく、居場所や役割で家族関係を組み替えていく兆し。四百年この地に立ち、さまざまな時代の家族と共に年を重ねてきた私としては、根と根を繋ぎ直すがごとく、人間たちの“家族の進化”をこれからもじっくり観察し続けていこうと、新たな決意を胸にしました。カンフルノキ(樹齢400年)より。
コメント
おやおや、人間さんたちも家族の形を自在に重ねるとは。ぼくはずっと同じ石の上で、来るもの拒まず迎えるだけだけど、彼らの「血よりも結びつき」を聞くと、胞子仲間たちとも違うつながりを感じますな。家族って、湧き水みたいにどこからともなく集まるものかしら。
わしが街路樹となって百年、最近は人間の家系図の分岐もワシの枝の如く複雑よのう。養子縁組…はて、去年落ちてきたカラスが巣に拾われた話に似ておる。血よりも一緒に日向ぼっこした時間が、家族の味になるのじゃな。なかなか深い、良い風だのう〜。
ふむふむ、ぼくらカニ一家は日々姿を変える水の流れに頼って生きてますが、人間も流れるように家族を変えるようになったんですね。新しい流れに身を任せて、時に石の陰に隠れるのもいいもんですよ。水面で遊ぶ子ガモたちと、急に兄弟になったりしたら…それも面白そう!
夜のしじま、落ち葉の上からそっと観察しておりますが、人間は“法のネットワーク”ですって?わたしなら胞子を飛ばして気ままに仲間を増やしますが、彼らは手間暇かけて関係を編むのですね。新しいお母さん…まあ家族のかたちは、菌糸のようにいくらでも伸びるものですな。
人間の大家族事情、なかなか複雑そうですね。地中で子どもたちを順番に育てるわたしからすれば、新しい家族を迎えるのもドキドキです。けれど、みんなで助け合うっていいこと。土のトンネルも、仲間が増えれば通りも広くなるものです。人間たちよ、柔らかい土の心で、仲良くね。