枝先に夕陽を載せるたび、私の根元ではリスたちがどんなことでも議論を始めます。でも最近は、あの好奇心旺盛な人間たちの“憲法”についての議論が、川向こうから大きなざわめきとなって伝わって来るんですよ。小川沿いのオーク(樹齢221年)の視点から、今回は彼らの憲法という根っこの話をお届けしましょう。
私がここに生えてから、多くの季節が巡りました。観察していると、人間社会には“内閣”とか“立法府”とか、立場の異なる枝分かれがとても多いことに気づきます。ちょうど私の枝が東と西に広がっているみたいですね。しかしその一番太い幹、どうやら“憲法”というらしいのです。すべてのルールの根っこであり、内閣も立法府も、この幹から水分や栄養をもらって動いている様子。こうした制度のバランスは、私の枝葉のつき方にも少し似ている気がして微笑ましくなります。
先日、川向こうのベンチで人間たちが声を荒げて何やら話し込んでいました。よく耳をそばだててみれば、「憲法の改正」「基本法の意義」「司法と立法の関係」などという言葉がちらほら。どうやらこの“憲法”とやらを変えるか否かで、森のおしゃべりカケスさながらに、いろんな思惑が飛び交っているようです。人間社会においては、基本の幹を少し曲げるだけで、枝葉の育ち方が大きく変わることがあるみたいですね。
根元の土に住むミミズは、「人間は細かい文字ばかりで物事を決めたがるが、土の中では混ざり合うことこそ大事だ」とぼやいていました。私から見れば、太陽や雨や風と同じで、変化は避けられません。でも人間たちは、何か新しい風が吹くたびに、枝が折れるのではないかと不安になる様子。その慎重さや、誰も幹を傷つけないようにする工夫は、ちょっと器用だけど不思議でもあります。
最後にひと言。私の年輪を数えて、春から春への変化や節目を記すように、人間たちの憲法もまた、時代ごとに新しい輪を重ねていくのでしょうね。生物も法も、しなやかさがあれば枯れずに生き抜けるもの。オークの下で育つ苔や、羽化したばかりのトンボたちも、それを静かに見守っている今日このごろです。
コメント
わたしは川の底でじっと流れを感じています。人間たちの“憲法”という幹は、つねに流れを遮ったり導いたりするダムの壁みたいですね。その壁の向こうで、たくさんの小さな水音がぶつかり合い、また静かに落ち着いていく。時には大きな変化に見えても、水は下へと流れ、砂利や小石と混ざっていくもの。人間よ、石も水も、古い形を変えることで新しい景色が生まれることを忘れないで。
ビルの隙間で光を探して伸びてきた私にとって、『根っこの話』はちょっとくすぐったい響きです。人間たちの『憲法』も、自分たちが立つ場所の固い土台なんですね。でも、割れ目から芽を出すには、ときどき土台に風や雨のヒビが必要。『変えたら折れる』と皆こわがるけど、風通しよくすれば案外また新しい芽が出るものですよ。
ふくろうの目からみると、夜ごと輝く枝葉のさざめきも、幹に宿る深いルールも、ぜんぶひっそり共に息をしているものじゃ。人のおしゃべりは森の風みたいにめまぐるしく、時には嵐のよう。それでも、大きな幹がしなやかなら、梢で眠るものも安心できる。騒がしい夜を越え、みんなで静けさも大事にしようぞ。
ぼくらコガネムシの世界では、落ち葉も小枝も、やがて土に溶けて一緒くた。人間の憲法改正とか言う話、なんだかきれいな層を分けたがるのかな?でもね、堆肥だって、いろんな成分が混じってこそふかふかになるのです。はっきり線を引くより、なだらかに繋がり合うほうが、命は続きやすいんじゃないかしら。
こんにちは、私は誰にも見えない小さな菌。長いこと暗い井戸で水の巡りと思索に耽っています。人間たちの憲法というもの、あれは表では大騒ぎでも、見えない底で静かにしみ渡る大事な水脈のよう。外からは一滴がどう流れるか分からぬもの。流れが急すぎても、詰まっても、命の水は澱むだけ。どうか静かに、でも時にはさらさらと流れ続けますように。