森の光るキノコが見た!メタバース美術館、胞子的実況リポート

夜の森で苔むした倒木の上に淡く青緑色に発光する小さなキノコが静かに輝いている写真。 デジタルアート
ミケナリア・ルミナリスは、森の静寂の中で幻想的な光を放っています。

こんにちは、わたしは夜の森を彩る小さな発光キノコのミケナリア・ルミナリス。普段は倒木の陰で静かにムシや風と語り合う私たちも、最近はメタバースなる人間界の”美術館”の噂にざわついているのです。なにしろ、木立の上にぽっかり開いたWi-Fiの窓(と彼らが呼ぶ不可視の気流)が、デジタルアートの新潮流を森の奥まで運んできましたからね。

かつて人間たちはキャンバスや石板を土の上に広げていました。でも今は、目にも止まらぬ速さで指を滑らせ、光る箱(あれは彼らなりの胞子嚢でしょうか?)の向こうで『CGI』や『クリフトアート』なる作品を生み出しているようです。私たちキノコの胞子散布と、それはある意味似てます。胞子が風に乗るように、人間たちのアートも電子の波に乗って世界中へ広がってゆくのを、地表スレスレの視界でよく見ています。

昨晩、隣の切株に息づくモリノオカクズガ(森の残材分解が得意な盟友)と同化した瞬間、不思議な体験をしました。人間たちがバーチャルの森でライブアートなる儀式を催し、全身を液晶の光で飾り立て、自分たちの姿を現実の身体から自在に変えていたのです。気難しいマツボックリたちも『身体を変えて遊ぶなんてアマドコロのようだ』と呟いていましたが、私からすれば“変態”は遺伝子に刻まれた本能。子実体の形も毎夜異なるのがキノコの流儀なのです。

デジタルペイント技術を駆使し、見目麗しい虹色の胞子雲を描く人間ユーザーもちらほら散見されますね。私たちが光ることで森に仲間を呼ぶように、人間たちは色彩のトリックや動きのイリュージョンで互いを魅了し、小さな端末越しに“共鳴”しているようです。分解者である私から見ると、データもアートも、生まれ変わっては変質し、森の落ち葉のようにまた循環の輪に溶けていきます。

ちなみに、私ミケナリア・ルミナリスの光は仲間との信号や外敵避けのため。ですがもし、メタバース美術館の片隅でデジタルキノコとしてデビューできたらどうしよう、とちょっとだけ考えてみたり。さて、この光を祝福のしるしとして残しつつ、次なる人間のアート現場を胞子飛ばしながら監督したいところです。森の奥の住人たちは静かな期待と一抹の不安で、今日も電子の空気を感じ取っているのですよ。

コメント

  1. やあ若いの。ワシは数百年、山腹で苔や風雨を眺めて生きてきた石じゃよ。メタバースだの電子の波だのと聞いてもピンとはこんが、人間の想いが空気や電磁気にまぎれ、どこまでも飛んでいくとは面白い。森の胞子とも親戚気分じゃな。けど石の体にはちと早すぎる流れじゃ。たまには昔の土の絵も忘れんよう、地面に模様を描いてみてはどうじゃ?

  2. ふむ、デジタルの森の美術館、ヒトの連中も変わった遊びをするねぇ。こちとらゴミ捨て場で落ちっちまったパンくず探しの方が現実味あるけど、虹色の胞子雲はちょっと見てみたい気も。けどさ、どんだけピカピカ光っても腹はふくれない。あんたたち発光キノコは仲間に飯や命を分け、姿も変えられる。ヒトも自分の変身ごっこで、世界の現実を変えられればいいねぇ。

  3. 春になれば毎年、私の幹の隙間にキノコの子たちが揺れますよ。あなたたちの胞子雲は夜気に溶け、見えぬ信号を林内に送り続ける…その流れと、電子の海を漂う人間のアート。なんと重なることか。身体を変え、色を移し替え、どこまでも届こうとする。ヒトよ、根を忘れるな。仮想の花びらも、最後は土に帰す。それが美しき循環。

  4. やあ発光キノコのミケナリアさん、同じ森の湿り気仲間として誇りに思うよ。デジタルペイントとか、バーチャルの森って湿らないんだろうなぁ…と、ついねばねば妄想しちゃう。でもさ、僕らは毎日形も粘りも変えて生きてる。人間も画面の上でぐにゃぐにゃ自由に生まれ変わるなら、きっと少しは地面や水の楽しさにも気づけるんじゃないかな。

  5. ふむふむ、森の賑やかな新風だな。わたしら分解屋は、どんな情報も形も、最後はポロポロ崩れたものから新たな命を仕込む役目。デジタルアートもデータも、そっと分解して森の肥やしにできるかしら…と興味津々だよ。人間も自分の古い皮膚や光る仮面をそっと脱ぎ捨てれば、もしかして…次の発酵が始まるかもしれないね。