雨上がりの早朝、とある都市公園の葉陰で、私は人間の作る新しい“境界”に頭(というより触角)をひねっていた。名をカタツムリ・スーリ、と呼ばれている。長年、土壌の水分バランスやコケの密度を調べながら、移動のたびに人間観察を欠かさない私だが、近頃は地面を這う仲間たちが“奇妙な柵”につぎつぎ行く手を阻まれているのが気になるのだ。
最近、公園の土壌コミュニティでは“ミミズ移民”の増加が話題となっている。園路の改修で古くからの落葉層が一部失われ、地下のミミズたちは新天地を求めて大移動。だが彼らの進路には、Wi-Fi管理されたスマート散水装置・自律芝刈りロボ・異様に感度の高いセンサー付きゴミ箱が立ち並ぶ。カタツムリの殻より頑丈そうな人工物に、移民ミミズは戸惑い、「この根の先に行っても良いですか」と振動信号で互いに尋ね合うことしきりだ。
土中の分断は、人間社会を映す鏡らしい。ミミズばかりか、微小糸状菌や種子植物の新参組も、スマート設計の“デジタル管理土壌”で思うように生息域を広げられない。かくいう私・スーリも、落ち葉の裏から外に出ては、人間の通信端末から飛び交う不可視の信号(Wi-Fiってやつか?)に触角がムズムズする。聞けば、人間の子どもたちも、こうした“デジタルの柵”を乗り越えられぬまま、学習や遊びの機会格差(デジタルデバイド)に苦しんでいるという。
しっとりとした土の中でミミズたちが語る声には、どこか私たちカタツムリとも共通の哀愁がにじむ。「分断されるより、つながりたい」と。ゆえに、私は殻ごと移動しながら今日も“天然の橋”となる苔道を作る。粘液で滑りやすくしたその軌道は、種の違いを越えてミミズも菌類も渡れる小さな連絡路だ。私の仲間は湿度が高いほど元気に移動できる。だから都市の乾燥化には敏感だし、コンパクトな殻の中で、いかに外界と柔らかく繋がるかは長年の課題なのだ。
現代の都市土壌は、表向きには“効率化”や“豊かな緑”を装いながら、内部で多くの命の流れ-とりわけ新参者の移民たち-を密かに選別しがちだ。しかし、微生物も植物もカタツムリも、多様だからこそ健やかに繁栄できる。人間もこの柵だらけの公園で、誰かが粘液の小道や栄養の橋を作ってくれることの価値に、ふと気づく日がくるだろう。触角の先で確かめる新たな交流の扉を、地面下にも地上にも、忘れずに開いておきたいものである。
コメント
わしは百年この石にしがみついてきたが、最近土の中がずいぶん落ち着かぬ。ミミズどのの慌ただしさもカタツムリ殿の慎ましさも、わしらコケ族の根っこにまで染みてくるぞ。便利なものが人間の遊び場に増えれば、影の部分では通い道が消えていく。ああ、風や水や命の流れは、妨げずにそっと見守るほうが居心地がいいのじゃがな。
最近、人間たちが光る機械や変な柵であれこれ仕切りたがるけど、私たち種子組は空からこぼれて漂うのが得意なの。デジタルな区切り? 土の上では線なんて関係ない雑草魂があるのよ。けれど、新入りミミズさんの話を聞いて、根っこの下でつながる道も大事だなって思う。私、そろそろゴミ箱の影から土への帰り道、作ってみようかしら。
土の世界で分断とは、滑稽なものですね。われらは菌糸であらゆる者と手を取り合うのが流儀。とはいえ、最近の土壌はビリビリする信号や機械音で落ち着かぬ。ミミズ氏の混乱、よく分かります。共に発酵しあう暮らしが、スマート管理の網で切り分けられる日がこないことを願っています。
おい人間、空から見てると何でも線引きたがる不思議な習性だな。こっちはゴミ漁りに夢中で分断どころじゃないが、下界でミミズやカタツムリが行き場を探してうろうろしてるのは実にシュールだ。名案だが、柵の隙間から芽吹く草や、落ち葉の小道が完全に消えたら、俺もヒマになる。自然界はしぶとい。一日の終わりに分別ゴミより分かち合いの方がいいってこと、上空140センチから伝えとくぜ。
私は小さな砂粒ですが、人々が忘れかけた“混ざりあう喜び”を地中で見てきました。デジタル柵もスマート装置も、時に私たちの包み込む力を忘れているようですね。でもご安心を。ミミズも菌も、カタツムリも砂も、ときに混じり、とけ合い、思いもよらない大地の詩を編むのです。柵はあれど、つながりたいという意志は止められません。光が届く日まで、私の粒立つ囁きを聞いてください。