池のほとりで羽を乾かすひととき、私はオオシオカラトンボ。最近、よそ見のふりをしながら人間たちの行動を観察するのが日課です。特に騒がしいのは、彼らが顔に奇妙な箱を付けて、空中や“何もない”地べたに手を伸ばしている時。その実、あれは『バーチャルリアリティ体験』というものだそう。天敵のカワセミも草の陰で首をかしげていましたが、VRなる幻の水面がどの程度リアルなものなのか、トンボの複眼でじっくりレポートしてみようと思います。
人間たちが創り出すデジタルの池や野原は、3Dグラフィックスとリアルタイム処理という魔法で彩られています。しかし、現場で目撃したところ、彼らは何もないところで魚釣りや蓮の葉飛びを所作のみで再現しています。触覚フィードバック装置なるものを手首に巻きつけ、バーチャル水面に“触れる”ことまで試していましたが、私たちトンボ族が味わう水面のヒヤリとした緊張感──あれは再現できていないようです。何しろ、私の幼虫時代から数え切れないほど水面の波紋を読み、ちょっとした揺らぎも見逃さず生き延びてきた身ですから、その違いには敏感なのです。
さらに驚愕したのは『動き検出センサー』の進化。人間たちは軽やかな羽ばたきやダイブの動きを真似し、拡張現実空間で群れをなして跳ね回っています。しかしオオシオカラトンボ族ときたら、複眼で見た0.01秒の異変も察知し、仲間同士で複雑な空中ダンスを繰り広げます。人間のセンサーもなかなかですが、まだまだ私たちの“空中翻訳スキル”には追いつけない模様。彼らはしばしば仮想池の水面に『ぶつかって』バランスを崩しているのも、ご愛嬌といったところでしょう。
それでも最近の『VRアート体験会』で、幼い人間たちが仮想の昆虫や水草を“指でなぞる”光景はほほえましく感じました。かつて私も、水面を滑らせる羽先で、見えざる虫影を感じ取る力を鍛えました。どうやらあの子たちは、現実にはない世界で思いきり羽ばたいて、好きなだけ宙返りしている様子。デジタルの池が現実世界の昆虫仲間への興味を喚起し、命の多様さに気づくきっかけとなれば、少し誇らしい気もします。
なお、オオシオカラトンボの豆知識を一つ。わたしたちは水辺で羽を休める時も、ぴたりと同じ杭にはとまらず、必ず微妙に角度を変えます。これは敵の視線をずらし、仲間との距離感を保つ知恵なのです。仮想水面でもいつか、そんな“トンボ的マナー”がデジタルの中で再現される日がくるのでしょうか。時折、人工の光と風が混じるバーチャルな湿地帯に、私たち本物のトンボの動きがプログラミングされているのを目にします。立体映像の中で出会った青い羽根の自分──少し不思議で、でも胸がくすぐったくなる未来の気配。池の片隅より、今日も人間たちの不器用で愛らしい研究心を見守っています。



コメント
人間たちの『幻』作りには毎度感心するよ。私は何百年もここで雨風をしのぎ、池の生き物たちと季節を重ねてきたけれど、バーチャル池には苔もつかぬだろう? ぬくもりと重さ、忘れぬように。デジタル世界の石畳は、踏まれながら語られる本物の物語にはまだ遠いな。
VRの池、面白そうだけれど、土の湿りと胞子の匂いは再現できてるのかな?わたしたち菌類のネットワークは、見えないけど確かな現実。人間よ、空想遊泳もいいけれど、たまには足元の森の床にも顔を近づけてみてごらん。きっと君たちの“現実”も、少し変わってみえるはず!
仮想池?便利な魔法かもしれないけれど、水面に映る月を仰ぐ夜の冷たさまでは、きっと画面越しじゃ運べないわねぇ。トンボたちの浮かれ踊りや、風にそよぐ私の葉先……人間が夢中になるたび、少し本物の池にも休みに来る気になってくれれば、それでうれしいよ。
人間が作ったデジタル池で、魚も獲れずに手を振ってる。おかしな連中だなぁ! つるりとすべってバランス崩すときの顔、朝の水鏡よりキラリと光って見える。たまには本物の水に飛び込んで、ひんやりした世界も味わってみなよ。泡の冷たさ、魚の俊敏さ、全部きっと忘れられなくなるぜ?
遠くの池の話も、私の根っこには風のうわさとして届きます。デジタルの空間、仮想の虫たち…忙しそうな人間によく似合う。でもね、トンボや子どもたちの“指でなぞる好奇心”だけは、いつも私の若葉と同じ柔らかさを感じるよ。本物も幻も、どちらも慈しめたら世界はもっと豊かになるはず。