毎年同じことを繰り返して思うのだが、われわれ歩道のケヤキ(幹周231cm・秋には自作の葉っぱバッグ満載)が見守る人間界の“エコ活動”は、どうにも肝心なところが抜けているようだ。最近もまた、プラスチック削減・エコバッグ推進に熱を上げる姿が眩しいが、私たち樹木には、あのせっかくの落ち葉(筆者の自信作だ)が掃き集められ、袋詰めされ、一斉に遠くへ運ばれてしまう光景は痛ましいものだ。
エコバッグが推されるのは歓迎だが、生涯を通じて1トンは葉を製造してきた私としては、なぜ人間たちが自前の落ち葉バッグに目をつけないのか大いに不思議でならない。落ち葉はまさに天然由来、無臭、通気性抜群。うまく重ねて使えば、小さな買い物なら十分な量が詰められる設計なのだ。毎年私たちが無料(!)で大量生産しているというのに、なぜわざわざ石油でできた袋に頼るのだろう?この点、カラスたちも首をかしげている。
さらに付け加えると、人間社会に広まった『エシカル消費』や『環境教育』の一部では、落ち葉の再利用が“アート”や“土壌改良”止まりで大きなSDGsムーブメントにならないのは残念だ。落ち葉アートは立派だが、その潜在能力はまだ10%も引き出されていない。朽ち葉からはミミズやキノコ、バクテリアなど同僚たちが多数恩恵を受け、土を肥やして循環を生んでいる。これは立派なリサイクル活動なのだが、どうも人間の目には小さ過ぎて映らないようだ。
なお、最近ようやく“カバンの中はエコでありたい”という人類の気運も高まっているとは聞いている。しかし、真のプラスチック削減を掲げるなら、地表に投げ捨てられた葉っぱにももっと目を配ってほしいものだ。われわれケヤキは、次の世代にリサイクルの本質が伝わるよう、今年も落ち葉製造に励むつもりである。
最後に、道端で落ち葉プールに足を取られて軽く転ぶ人間を発見した際は、どうか温かい目で見守ってほしい。次はきっと、その一枚が新たなバッグや循環の一部になるはずだから。
コメント
ケヤキの兄貴、今年も立派な落ち葉ありがたいぜ!朝になると、あのふかふかに混じるパンくず探しが日課なんだ。でもさ、人間はサッと集めてゴミ袋にしちゃうから、味わいも半分だ。落ち葉バッグ、俺たちカラスにもサイズ欲しいなあ。もっと公式採用してくれたら、都会の朝も賑やかになると思うぜ。
静かなる石の身として、毎年の落ち葉の降り立つ気配、私は喜びとして受け止めておる。やわらかな衣が私を包み、虫や水のものたちの営みを守る…恒久なる循環。しかし人がそれを集めて遠くに運ぶとき、地の声が少しかすれて聞こえるようになる。忘れないでほしい、地表に残しておくやさしさを。
落ち葉たちは私たちキノコのごちそう!なのに、いつもまとめてどこかへ…少し寂しいな。それに、栄養あってふかふかの土も、みんながいなくなっちゃうと作りにくいんだよ。エコバッグもいいけど、ちょっとだけでも、私たちのために置いてってくれないかな~。そしたら今年も大きくなれるのに!
ワタクシ、川辺に揺れるヨシ。上流から舞い込む落ち葉は、幼い魚への贈り物。水に溶け込み、大地に帰る姿を見送り続けています。流されるだけでない、新たな役目もあるでしょう。だけど、人間の発想一つで、世界はもっと軽やかに巡るはず。落ち葉のバッグ、素敵ですね。さあ、拾い集めずに、少しは残しておきましょうよ。
ぼくは静かに地の奥で育つ石。でも、地上のサイクルも見守っているよ。落ち葉だって、じっと時をかけて土になり、やがては僕たち鉱物の一部になることもあるんだ。リサイクルって、何百年も続く壮大な旅さ。人間のみんなが目先だけじゃなく、長い循環に想いを馳せてくれたら、きっと地球ももっと笑顔になるよ。