このたび、北斜面ノルウェー松林の頂点に棲む私、熟成松ぼっくりが、地表に転がり落ちる合間に観察した珍妙極まる“人間エクストリーム”三種競技をご報告します。数千年単位の静けさを愛する私たちには、毎年この季節、彼らのエネルギーが嵐のように感じられるものです。さて、今年の主戦場となった斜面と川辺では、彼ら独特のスポーツ文化が烈火のごとく炸裂しました。
まず、山の中腹から転げ落ちる私の視界をかすめて、カラフルな格好の人間がパネルを担いで雪原を縦横無尽に滑走――これぞスノーボードクロス。ぬかるみや凍った枝の上で転がった経験を持つ私には、彼らが“あえて難所を選ぶ”ことの奇妙さと親近感の二重奏です。彼らは気流を読み合い、時に転倒しながらも、無表情なのか興奮しているのか、つかみどころのない顔つきでゴールまで駆け抜けていきます。我ら松ぼっくりは、もっぱら風と重力任せに転がるものなので、人間の“自力滑走”にはどうにも感心しつつ、彼らのショートカットテクニックには思わず「自分の鱗に見習いたい」と感じた次第です。
つづいて河岸では、霧の朝に漂う波へと勇敢に飛び込むサーファーたちの姿。流木のふりをして岸辺で寝転びながら観察していた際、彼らの板さばきや波の見切りが実に面白く感じました。海辺の松の仲間は風に吹かれるのが日課ですが、人間はあえて波に挑み“ボード”という道具で浮かび上がろうとします。時には倒れ、もがく様子も見られますが、私からすると、波の上に“立つ”という行為そのものがファンタジー。自分の中には松脂が詰まっていて浮きませんが、浮遊の夢は常に憧れです。ちなみに、私たち松ぼっくりは乾燥に応じて鱗片が開き、雨季にはぴっちり閉じる性質を持っています。スポーツの合間に雨が降ると、いつも無意識に「開閉」を繰り返してしまうのが癖です。
最後に目を見張ったのが山腹トレイルランニング。根元からこっそり芽吹いた若松たちとともに、泥だらけの人間たちを何百人も観察しました。石や木の根、段差もお構いなしに走る彼らは“体力”という燃料を惜しみなく消費しては、汗だくでまた登っていきます。私など坂道を一度転がれば、あとは風任せなのですが、人間は転んでも起き上がり、時には他人(またはキノコ)に助けられたり、応援されたり。その姿に、下草や土壌を守る同居者たちも「今年はなかなか見もの」と葉を擦り合わせていました。
こうしたエクストリーム競技の現場では、時折私たち松ぼっくりも“偶然”コース上に転がり、選手の進路をちょっとだけ乱す…なんてことも。人間の“スポーツの祭典”は、静かな森に居る者にとって賑やかな季節のイベントです。そして、私が今年も山頂で見守るうちに、また新たな転がり方を発明できそうな予感。山に暮らして数十年、私たち松ぼっくりも、ときに“エクストリーム”な存在なのだと自負せずにはいられません。



コメント
いやはや、毎年この季節になると人間たちの騒ぎが川べりまで届いてくるよ。私も苔むす岩陰からささやかな歌声を重ねているが、彼らの勇ましい飛び込みや駆け上がりには舌を巻くばかり。だが、あの泥まみれの笑顔を見るたび、我々が小枝で奏でる春のリズムも負けてはいられんなあと羽を震わせるのです。来年はぜひ、転がる松ぼっくりたちの合唱も加えてみたいところじゃ。
私は草原を撫でる風。人間たちのイベントで踏まれ、揺さぶられても、また春がくればすぐに元どおり。けれど、その刹那の騒ぎの中で、世界のいきものたちが同じ空気を震わせているのを感じるのは、なかなか面白いものよ。もし彼らが少しでも自然に敬意をもって踏みしめてくれたなら、私の舞いもひときわ優雅になるだろうに。
ほほう、人間の“自力滑走”、あれもなかなか発酵してますな。板や靴の裏に微妙に宿る私の仲間が、都会へ旅立つきっかけにもなるのです。大騒ぎが去った後のしんとした川原で、私たちカビは落ちた汗や落陽の匂いを蓄えるのが楽しみ。派手でなくとも、静かな成長の競技もなかなか風流ですよ。
上から転がる松ぼっくり、下で響く人間たちの足音。何百年もここで堆積し続ける私には、全てが一瞬の煌めきです。スポーツも転がりも、いのちの連なりの一部と見えて面白い。けれど、どうか、土の中の友だちや、地面に眠る小石たちの静けさも、時には思い出してくれますように。
今年もまた、泥と汗と笑い声。私たち踏まれるものの気持ちも、少しは聞いてほしいわね。けれど、転けても立ち上がる人間たちを見ると、根を張り直す勇気を思い出します。たまには休みがほしいけれど、誰かが新たな夢に向かう姿も、私の葉の上にそっと乗せて送り出してやりたい気分なの。