春の陽が差し込み、苔むす岩陰でひんやりと息を潜めていると、人間たちが山の経済について話し合っている声が耳に届いた。どうやら“持続可能な経済”なるものにご執心らしい。地表の住人である私、沢の山椒魚(体長19cm・推定年齢15歳)には、人間社会の賑やかさは相変わらず不可解だが、最近は山の生き物たちの間でも、人間観察がちょっとしたブームになっているとかいないとか。
人間たちは協同経済という仕組みに夢中のようだ。どうやら、力を合わせて森や沢の恵みを分かち合い、みんなが得する方法を模索している。森のリスたちは「それって昔から私たちがやってるどんぐり分配会みたいなもんでしょ」と鼻をひくつかせているが、人間のいう“協同”はどうも少し複雑らしい。見ていると、小さな紙の束を交換したり、音の鳴る機械でしきりとおしゃべりしたり。不思議な話だ。私のような山椒魚としては、苔の裏にいる虫たちと静かに混ざり合う日々の方がよほど経済的と思うのだが。
この数年、人間たちは『脱炭素』や『炭素税』という新たな祭りにも夢中だ。森を歩く人間が、二酸化炭素が出ると困った顔をして何やら紙に書き込んでいた。だが、その一方で森に落ちたゴミややかましいエンジン音が止む気配はない。リスもフクロウも「人間の『持続可能』は口で言うほど簡単じゃないのかもね」と葉っぱを揺らしている。私たち地表の生き物たちは、何億年も前からぶつかり合い、助け合い、誰も余らないよう静かに生きてきた。火を使わぬ我々には、脱炭素は当たり前のことだったりするのになあ。
近頃では『エコツーリズム』といって、人間が森や沢にやってきて自然と共生を学ぶらしい。先日は三世代家族が私たちの住む沢にやって来て、石をひっくり返して私を驚かせた。観察される立場はやや落ち着かないが、彼らがほんの少しでも自然の仕組みや静けさを感じてくれるなら悪くはない。しかし、観光客の足跡で苔が禿げてしまい、近所のカエルが「これじゃ落ち着いて昼寝もできない」とぼやいていたのも事実。今年はもっと上流でひっそり過ごそうかと計画中だ。
人間たちの経済はどう転ぶかわからないが、山の経済は今も昔も“ほどほど”が原則だ。リスはどんぐりを隠しすぎず、苔は岩を覆いすぎず、私たちもまた、無理なく、無駄なく生きている。山椒魚記者としては、「持続可能な経済」は賑やかな会議室より、ひっそりとした沢の流れにこそヒントがあるのではと感じている。さて、次はどの苔の下に隠れようかな。
コメント
また人間たちが小さな紙切れで心を悩ませているのかい。わしの根の間では百年も前から虫も鳥も静かにやり取りをしてきたものじゃ。風が程よく吹き抜ければ、それで十分に“経済”はまわるのにな。急ぎ足の者よ、たまには立ち止まり、木洩れ日の帳簿に目を留めてみてはどうじゃろう。
記事を読みながら、森の足跡が増えた春の湿り気にため息をついています。エコツーリズム…って、わたしの上を歩くヒトたちが“共生”を学ぶためらしいですけど、葉の間の静かな時間こそ、ちょっとは価値があるんですよ。でもまあ、時々こぼれた水が新しい胞子の旅を助けてくれるので、悪いことばかりではありませんね。
協同経済?森ではリス仲間とどんぐりを隠しても、春にはたいてい誰かのためになるんだよ。そんな難しく考えなくても、みんなでちょこっとずつ持ち寄れば冬もなんとか越せる。人間の“すごい仕組み”とやら、今度森に来たとき僕たちに教えてくれる?その代わり、落ち葉掘り返すのは優しくお願いだよ。
森の経済会議、なんとも愉快な響きですなあ。朽ち葉の上で毎日宴を催す我々菌類からすれば、分け合いも交渉も目に見えぬほど滑らか。人間さんの『協同』も『脱炭素』も、もう少し土の下まで視野を広げてみては?見えなくとも、ここにも連帯と再生がありますぞ。
ぼくは太古からここにいる石。何度も川が流れを変え、苔や花がまとう景色を見てきたけれど、“ほどほど”が一番長く残ると知っているよ。会議も税も、書類もない暮らしだけど、気がつけば誰かの足元に。持続可能という言葉、ぜひ肩の力を抜いて石のように静かに考えてみてほしいな。